2018年2月27日火曜日

道具の大切さ

ここ一ヶ月、音楽の生産性が下がっております。
Twitterばっかりしてる、という事もありますがその理由を考えてみなくてはなりません。

別に病気になったわけでもやる気が無いわけでもない。

最近、右肩が痛く、目も疲れます。歳…? そんなに急激な老化が?
何かしらのテレビを見ていて、ふと気づきました。

「道具」

あーー、と思いました。
一ヶ月前、4年使っていたマウスが逝きました。
デザインが似ている、低価格、という事だけで替わりを買ったのですが
これがどうにも、精度がよろしくない。

いや、メーカーの名誉のために言えば
恐らくは「普通よりも良いマウス」でありましょう。
しかし、ほぼ全ての打ち込みをマウスで行う私の音楽制作スタイルでは
ゲーマーもびっくりの高精度を要求されるわけです。

ピアノロールを打ち込むのも
エクスプレッションカーブを描くのも
スピードと正確さを要求するわけです。
特に、エクスプレッションなどは、「92」「107」とかいう数字が大嫌いで
「90」「110」でなければ満足しない性癖の持ち主。

新しいマウスに替えてから、打ち込みミス、数字合わせのイライラが蓄積し
さらに、右手に妙な力がかかっていて、それが肘にダメージを与えているようで
首も凝り、目も疲れる…

「高精細って書いてあったじゃん!!」

って思いますが、そういえば以前使っていたマウスは「ゲーミングマウス」
通常使用では必要無い程の精度を誇るマウスでした。

私にとっては、マウスは楽器と同じ。
精度が低いマウスでは、身体自体にダメージが蓄積します。
いかんいかん。

私はDTMerでは珍しく、鍵盤とか、パッドとかをほとんど必要としません。
逆に言えば、マウスでほぼ全ての作業をするわけです。

マウスの精度に対するイライラが、日々蓄積し
集中できず、生産効率が落ちていた、というわけです。
それに気付くのに…一ヶ月かかっちゃったよ…

マウス買いに行ってきます。

ちなみに、以前使っていたマウスは
Logicool Performance Mouse MX 950
(実はコレでも解像度は1500dpiだった)

買って…、書い直す事にしたマウスは
Logicool M500

2018年2月20日火曜日

歌モノをつくるとき

普段、インストばかり作っていますが
今年は何故か、ずっと歌モノを作っている。

「よおし、今年は歌モノ作るぞぉ」

と思っていたので、それが現実になって良いのですが
携わった数が圧倒的に少ないのでてんやわんや。

歌の極意について、常に生徒に言っている事があって
「青い空、白い雲」という歌詞があったとし、
それを、

久しぶりの休みにお出かけした時の「青い空、白い雲」
待ちに待った、友人との遊びに行く日の「青い空、白い雲」
卒業式の日の「青い空、白い雲」
大切な人と別れた時に見た「青い空、白い雲」

メロディーだけで、差分を作る

という課題を出しています。

あまりにもありきたりな歌詞ですが
この課題は実に有意義で、歌とは何かを深く考えさせられます。

DTMerの皆さん、一度やってみると良いでしょう。

2018年1月31日水曜日

デジタルなのに?

ノイズが乗ります。

結論から言うと、ハードシンセはノイズが乗るのです。

私のシンセケーブルは、1m6,000円もするケーブルです(しかもモノラルで)
LRで1m/12,000円もするケーブルを使っているのです。

にも関わらず、ノイズが乗ります。

いや

元々ハードなんで、完全にノイズゼロというわけにはいきません。
しかし、古いせいもあるのでしょう。とてもとてもノイズが気になるのです。

さーーー

うーむ…仕方ないので、Coaxに頼ります。
コアキシャルなら、デジタルだから、ノイズは乗らないはず!
乗らないはず!!

ざざっ

なんでやんねん!!

いや、このノイズは、デジタルノイズだから、きっとシンクが切れる音だ。
って、なんでシンクがそんなに頻繁に切れるのさっ?!

格闘すること、8時間。

結論は…


ケーブルが悪かったのです




2018年1月29日月曜日

きっかけはどこから…?

コミティアに向けて絶賛新譜製作中です。

曲を作りを始める際に、楽器に向かう場合、何の楽器に向かうか、ですでに曲がある程度形が決まってきます。
私に場合には主にピアノ、です。ピアノで曲を作り始めると当然ピアノの曲になってしまいます。オケの曲を作ろう、と思ったらピアノに向かってしまうと何かがおかしくなります。

これ、ギターだと弾き語りという手がある為、とても羨ましく、ピアノだって引き語りが可能なのであって、今年はそれらに積極的に挑もうと思っているわけですが、

楽器が弾けるとやはり便利なのです。
ただ、ピアノ弾きの私はギターにとてもコンプレックスがあります。弾きたくて何度も試みましたが挫折し、もうすっかり諦めました。ピアノも難しいことができるわけでも無く、演奏者としてはとても人前には立てません。

でも、なんというか、そういうのをどうやらこだわり過ぎていたらしく、もっと気楽に構えていい時代のようです。積極的にライブをやりたいなぁと思っておりますが。

楽器が弾けると、その楽器に頼ります。
逆に言えば、何でもある程度楽器ができさえすれば、どこからでも入れるのです。
私は金管とピアノです。

2018年1月28日日曜日

サビだけの音楽

生徒の一人に中学生の子がいるのですが
この子が実によく出来た子です。
叔母さんがイギリス、スコットランドに住んでいるらしく
毎年にように遊びに行くという影響なのか
ずば抜けた視野の広さを持っていて感心しています。

その子が言うには
「最近の若い子(自分で言うw)は、過程をすっ飛ばす」
と、嘆いている。
出来上がっているものを見たりいじったりするのは出来ても
作る過程というか、工程というかはめんど臭いだけで無駄だと思っている。
音楽も、イントロがあって、Aメロがあって、展開があってサビがあるから盛り上がるし
盛り上がるためのボルテージを徐々に高めて行く過程があっての最高点なのに
サビしか聞かない、とか、動画とか見てても飛ばして見たいところだけ見るとか
俺に言わせれば、馬鹿じゃ無いの?って思う、と
先生はどう思います?

いやーー、出来たお子さんです。親御さんがとても立派な教育をなされているようです。

様式美、という概念があります。
何十年も、何百年もかけて人類が積み上げてきた美意識があります。
形式ばったもの、というものがあります。
それは、その時代時代によって、その形が最も適していると
その時々の人々が選んできた「結晶」です。
なので、それに抗う、あるいは変化させるというのは
相当のセンスと覚悟が必要となります。

私たちはまず、その形式に対して、なぜそういう形なのか、という意味を理解し
その上で、現代に適応した姿を模索するべきです。

中華料理店で酢豚を注文し
「酢豚、野菜抜きで」って言ったらそれはもはや酢豚ではありません。
酢豚の豚肉だけをたべてえ、後は残したり
ヴィッフェタイプで、肉だけ取っていったりする行為は
別に、悪いことでは無いでしょう。
しかし、社会的に美しいでしょうか?
どうにも、自由意志による決定、とは割り切れない違和感を感じます。

その違和感は「形式に囚われている」というのでしょうか?
既成概念、でしょうか?
何故そこに、野菜が入っているか、パイナップルが入っているか
その意味を、わかっていないだけでは無いでしょうか?
その意味を知った時、1つの形を理解でき、全体像を捉えることができるのではないでしょうか?
長年かけて作られてきた形式には、確かに現代に適応できていない形もあります。
しかしそれも、形式を知った上で、適応させて行くべきではないでしょうか?

形式を知る事は、大人になる事です。
物事の意味を理解するという事です。

日本の音楽が何故、イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ、があるのか。そして何故最近は大サビと呼ばれる部分があるのか。
そこに「何故そうなのか」という疑問に対する答えを準備しないと、作る側も自信を持って作れませんし、聞く側にもそれを伝えるこちはできません。

2018年1月26日金曜日

「降りてくる」という現象について 1

音楽家がよく使う言葉です。

「降りてくる」

これは音楽のメロディーや動機、歌詞などが
何の前触れもなく脳裏に浮かぶ現象です。
並の音楽家なら一度や二度は経験したことがあるでしょう。

この「降りてくる」という現象が脳科学的になんと呼ばれているか正確にはわかりませんが、一種の「ひらめき」みたいなものなのでしょう。

この「ひらめき」とは意図的に起こせる現象ではない。
…というのが通説ですが、本当にそうでしょうか?

茂木健一郎「すべては音楽から生まれる」
久石譲 「感動をつくれますか?」

この二冊の新書を熟読し今でも時々読み返すのですが
特に久石さんの「音楽家としての生き方」には感銘を受け
今その生き方を実践しているところです。

脳科学者としての茂木健一郎先生の、音楽に対する姿勢は大変素晴らしく、科学者の視点が面白く、これらの2つの本と、数少ない作曲家に関する資料を統合した結果、この「ひらめき」という意図的には引き起こせないと思える現象を「意図的に起こす」という事が可能であると私は信じています。

DTMで作曲する私は、常にパソコンの前に向います。
しかし、パソコンの前でこの「ひらめき」が起こった事は一度もない。
常に、それ以外の環境で起こることがわかっています。

偉大なるベートーベン先生も、メロディーの動機が浮かぶのは
もっぱら「入浴中だった」という証言が、メイドによってされています。
朝起きると入浴し、大声で歌い、良いのが浮かぶとだだだだっと半裸で走ってきてピアノに向かい、一心不乱に楽譜を書き、おかげでいい曲が書けたが代償として風邪をひいた、という手紙を友人に宛てています。

スティーブ・ジョブズは毎日散歩を欠かせなかったといいます。その散歩中に浮かんだアイデアが、ヒット商品の殆どの割合を占めているとも云います。

私は、というと、入浴中にメロディーや全体像が降りてくる、という頻度が大変高く、また、睡眠直前。布団に入ってさー寝るぞというその瞬間が最も降りてきやすい。
散歩中もそうですが、残念ながら散歩中は書き留めたりできません。歌うわけにもいきません。なので、散歩中に浮かぶと、それを書き留められない分精神が病むので、散歩中はできるだけ「浮かばないように」しています。例えば音楽を聞きながら歩くとかして、逆に「ひらめき」が起こらないようにしています。

これらからわかってくることは、ひらめきとは、目的の行動以外の時に起こるということです。つまり、音楽の事を考えている時は、音楽は降りてこない。

人間の脳は大変興味深い。なにせ、論理思考の先にひらめきは無いのです。おそらくこれが「才能」とか「感性」と呼ばれる部分なのでしょうが、そんな魔法みたいなスキルはありません。きっと何か理論で説明できるはずです。

このひらめきを意図的に、毎日、常に起こせる、という事は、毎日意図的に奇跡を起こせると言うことです。音楽家としては夢のような毎日でしょう。降りてくるのをただひたすら待つ、という人も多いでしょうが、これが何故このタイミングで、よりによってこんな時に、という経験がある方も多いでしょう。全くその通りで、「よりによってこんな時」を毎日起こせばいいだけのことです。

音楽を作ろう、と思った時にまず真っ先にパソコンに向かったのでは、何も生み出せません。雰囲気とノリだけで作り始め、形に出来たとしても何の感動も生みません。そういう「量産品」も必要な世の中なので、それ自体もクリエイターとして必要なスキルです。しかしそればかりやっていると、あっという間にアイデアの枯渇を生みます。行き詰まり、何か新しいものを入れないと前に進めなくなります。新しい音を手に入れたりプラグインに手を出したりし、「新しいおもちゃ」で遊びます。新しいおもちゃは実験的な生産物は生まれるかもしれませんがそう長くは遊べません。飽きて、また行き詰まって、新しいおもちゃを求めます。

モチベーションの維持に、「新しいものを買う」という事を繰り返していると、そのうち「新しいものを買ってもすぐに飽きる」という事すらも覚えてしまいます。となると八方塞がりになります。

音楽を作ろう、とした時に、真っ先に楽器を持つ人も多いでしょう。作曲しようと思ってるんだから当然だろう、と思う人が殆どだと思いますが、前述の通り、ひらめきとは目的とは無関係な行動の時に起こるものです。つまり、楽器を持った時点でひらめきは起こらない。実に過酷な真実です。

ひらめきは、音楽行動以外で起こる。食事中、入浴中、読書中、散策中…、その際中に浮かんだアイデアを、憶えて帰るのは大変困難です。メモが必要です、記録が必要です。今はスマホがあるので録音も可能ですが、最も便利なのは「楽譜」です。
楽譜が読み書きできる、という重要性は、ココにこそあります。

では、降りてくる、を意図的に生み出すために、私達が出来ること、について次回触れることにします。ただ作ればいいだけじゃない。いい曲を作るために、作曲家として日々心がけたい事、です。

久石譲「感動をつくれますか?」は名著です。